学校教育には一つのパターンがある。年齢でまとめる。数十人単位でクラスにまとめる。学年ごと、科目ごとに教科書を与える。先生は、教科書に従って、クラスの全員に同じ進度で授業を進める。生徒各自が十分に理解したかは考慮されない。
なぜか。教育の効率化を図るためである。わが国では、明治時代から始まった制度である。
でも、生成AIが普及した場合、先生が教壇に立って授業を行う必要はなくなるかもしれない。質問に対し、普通に受け答えをしてくれる。カリキュラムに従って、授業をする、人間にはある間違いがない、疲れない。生徒の理解度に応じて、予習や復習をさせ、チューターとして柔軟な指導をすることができる。家庭教師より質が高いかもしれない。パソコンさえあればよい。そうなると、先生を生成AIに置き換えればよいということになる。算数なら計算はおろか応用問題もわかりやすく教えることができる。
漢字の読み書きも、文章の読解も正確に教えることができる。こうなると、何も同じ年齢の生徒を学校に集め学習させる必然性もなくなる。生徒は、自分の理解度に応じて生成AIを用いて学習すればよい。先生の授業にかかる負担もずいぶん軽減されるのではないか。
子供は家庭で育ち、学校に通って、社会生活で必要なことを学ぶ。社会生活に最低限必要なものは何か。①個人の尊重②人との役割分担と協力③公平で公正なルールに従うといったことである。
しかし、現実はどうか。先生が上、生徒は下の立場で集団の規律を押し付けられ、公平、公正に扱われていないのではないか、服装や髪形に関する校則で個人の尊重は軽視されているのではないか、同調圧力によって役割分担や協力もできにくくなってはいないか。
不登校や自殺、いじめの問題も一向に減らない現状で、すべてが生成AIで解決するなどとは言えないが、学校生活をストレスなく楽しく過ごすためには、生成AI と学校生活のハイブリット化が有益であることはほぼ間違いない。
生成AIが、行き詰った学校教育のゲームチェンジャーになれるか、見守りたい。